YouTube登録者20万人記念 Dr. Ryo 誕生の真実〜初めて語る誕生秘話〜
2025年11月28日
みなさん、いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
今日のブログでは、YouTube登録者20万人を迎えた特別な節目として、これまでほとんど語ることのなかった、Dr. Ryo 誕生の裏側という、何故医療関係者をめざすことになったのかを、初めてお話ししたいと思います。
ぜひ最後までお付き合いください。
2歳半から高校2年まで続いた闘病生活

18万人記念の動画を公開していますから、ぜひそちらもみていただきたいのですが、私は2歳半から高校2年生まで、常に病気と向き合う生活をしていました。
幼少期はともかく、高校生になってからは、症状が出たり出なかったりを繰り返すため、元気に見えている時だけしか知らない人からすれば、まさか闘病中だとは思わなかったと思います。
それだけ、落差が激しかったのです。
それでも、週に一度の体質改善の注射を欠かすことはありませんでした。
今思えば、病気と共に育った、と言える幼少期でした。
祖母と過ごした10年の介護と、思春期の心の傷

ここで、祖母の話をさせてください。
私が小学校高学年になった頃、同居していた父方の祖母がアルツハイマー型認知症を発症し、そこから10年にわたる自宅での介護生活が始まりました。
祖母の物忘れは日々悪化し、母がしていないことを“やった”と言いだして、近所に泣きながら苦情を言いに行く…。
母の精神は限界に近づき、それを見ていた私はどうすることもできず、さらに家庭内の空気は常に張り詰めていきました。
そんな中でも、私が元気な日は、祖母の手を引いて近所を散歩するのが日課でした。
しかし、介護が長期間続くにつれ、祖母はトイレで、オシッコがでないと泣く日々が続きます。
実は、トイレまで辿りつくまえに、尿漏れをしており、介護が終わった時には廊下は腐って抜け落ちるほどの状態になっていました。
当時、中学生だった私は、制服からおしっこの匂いがしないか、クラスの同級生に、臭い、と言われていないか、怯えながら過ごしていたことを覚えています。
なかなか理解しようと努力しても、思春期の私にはとても重い現実でした。
それでも、容赦なくその状態は続き、祖母の介護は結局、10年間続くことになります。
母方の祖父の突然の心停止と、無力な自分
祖母の10年の介護が終わった年と、同年、今度は母方の祖父が突然倒れました。
心停止から奇跡的に蘇生したものの、次に心臓が止まったら諦めてください、と医師から宣告される状況でした。
その光景を前に、当時の私は無力な大学生でしかなく、何もできない自分を責め続けました。
ある日、担当医から呼び出され、もう老衰です。仕方がない、と言い残して立ち去ろうとしました。
その時、胸が締め付けられ、私は思わず声を上げていました。
「先生のおっしゃっていることはわかります。でも、最善を尽くしたと言い切れるのですか?
もし祖父が先生のご家族だったとしても、同じ判断をされますか?
私たちは、先生にすがるしかないのです。
お願いですから、助けてください。」
そう言いながら、気がつけば涙を流して頭を下げ、土下座をしていました。
そのまま、必死に担当医にその想いを訴えました。
すると担当医は、ちょっと待ってて、と言って姿を消し、その足で病院長の元へ向かったのです。
翌日、祖父は別の病室に移され、明らかに昨日よりも手厚いケアが始まりました。
素人の私でもわかるほど、全力で治療してくれていることがわかり、担当医に感謝しました。
祖父が、口から食べられなくなってから、、、

反応が一気になくなった理由として
祖父の介護は、その後も別の病院へ転院しながら、結果的に合計10年もつづくことになります。
その介護のなかでも、一番心を締め付けられた瞬間がありました。
それは、祖父が口から食べられなくなり、胃に直接流す点滴のような治療に切り替わってから、祖父の反応が急激になくなっていったことです。
それを機に、祖父はまるで植物状態のように見えてしまうほど、急激に痩せほそり、みるみる弱っていきました。
私の目の前で、日に日に祖父は明らかに衰えていくのです。
居ても立っても居られなくなった私は、不安になり、何度、医師や看護師に質問するのです。
決まって、成人男性に必要なカロリーは足りています、という答えばかり返ってきます。
到底、納得できるはずがありませんでした。
祖母の10年、祖父の10年、合計20年の介護を経験した私の中で、生きる力”を取り戻すには、どうしたらいいのか?
という問いが強く刻まれていきました。
父のひと言で人生が動き始めた
私は当時、医療とは関係のない大学に通うただの学生でした。
実は、大学の夏休みの2か月だけ祖父の介護のために病院に寝泊まりしていたのです。
事実上、半分は休学状態でした。
それでも、夏休みが終わって大学に戻ろうとした日の前夜に、父が話があるから聞きなさいと静かに言いました。
お前は長年、患者の立場で苦しんできた。
その経験があるお前だから救える人が必ずいる。
医療関係者を目指してみないか。
もし、軌道修正するなら、全力でサポートする。
その夜、私は一睡もせず、自分の心と向き合い、翌日、大学を辞めることを決意したのです。
決意したものの、その時点から受験まで3ヶ月しかありませんでした。
そのため、各教科1冊ずつ参考書を買い、睡眠時間を削りながら勉強することにしました。
歯学部と、医学部に願書を出すことになるのですが、先に歯学部の合格発表があり、合格することになるのですが、次に医学部受験の本番の前夜、父からこう言われました。
歯学部、医学部、医療者として人を救うことは変わらない。
6年後に国家試験を受けることになるが、お前は別の大学に入ってからの入り直しになるから、同学年の中では年長になる。
歳を重ねるほど暗記は難しくなるから、それを踏まえて、医学部を受けるべきか、将来どうしたいのか、もう一度よく考えてみなさい。
自分の体験、家族の介護、未来の責任…。
すべてを考え抜い、全てを無駄にしたくない、そう考え抜いた結果、
私は歯学部で、人を救う道を選ぶことになります。
歯周病科での180枚スライド発表と、教授のひと言

大学病院の歯周病科に配属になった私は、当時、歯科医師1年目でした。
通常、新人は10枚程度のスライドで、先輩方の前で、治療を紹介するのが普通でした。
しかし私は、白衣を着た時点で、患者さんからみたら、10年目も1年目も同じだと考えており、全力で先輩方に対して、負けない症例発表をしようとしていました。
そのため、大学病院に10年通院しても治らなかった患者さんの治療を ほぼ10ヶ月で治療を完了させて、その全工程を180枚以上のスライドにまとめたのです。
そして、その治療のすべて、をダブルスライドを用いて、症例発表会で発表しました。
結果は、先輩方からの容赦ない質問攻め。
質問に応戦して回答する、ということを、何往復もやり取りをして、気がつけば1時間以上たっていました。
今思えば、新人としては、かなり頑張ったと自分なりに思うのですが、経験の差は絶大で、、最後はジリ貧で、質問者にたいして、十分な回答が出せないくらい追い詰められました。
その質問の中でも、5年以上経験のある先輩から、他の治療法があるのではないか、何故、今回の治療法を選択したのかと、問い詰められました。
その際、私は、こう言い返したのです。
もちろん、その治療法も提案しましたし、今回の治療法以外にも、考えられうる治療法を全て提案しています。さらに、それぞれの利点欠点も伝えている。最終的に患者さんが選んだ治療法を選択しました。
先輩歯科医師は、こう返してきました。
患者さんの選択は必ず正しいとは限らない。
自分たちが、正しいと思える治療法を選択させるべきだ!と。
200名ほどいた室内は、かなり張り詰めた緊張感でいっぱいになっていました。
そのやり取りをする、少し前に、部屋に入ってきた教授が口を開きました。
「このやり取りは、新人の方が正しいね。あとで教授室に来なさい。話があります。」
その瞬間、私は報われたような気がしました。
(ただ、先輩方との関係は悪化しましたが…私は先輩歯科医師に感謝しています。
自分では考えが及ばない、別の選択があるということを、これを機にかなり意識するようになったのです。
歯科だけでは人を救えない!
治療を続ける中で、私は常に疑問を抱いていました。
歯科だけで、人は健康になれるのか?
その疑問を解決するために、私は行動しはじめたのです。
高齢者への聞き取りをして、昔と今との違いを伺いました。
食や農業の研究も自分なりにしました。
無農薬農家の支援も行いました。
土壌の違いが、地域により あることも理解しました。
化学肥料と殺虫剤が野菜や、食べ物、の本質的なエネルギーを低下させて、結果的にそれを取り続ける人間の免疫に影響をあたえること。
そして、さらに、現代人の「噛み合わせの弱さ」が栄養吸収まで悪くしている現実があることを。
そのことに、気づいた時、私は確信したのです。
「噛み合わせから体全体を整えなければ、本質的な健康は取り戻せない」
これらは、トータルヘルスケアプログラム®︎の前身のトータルチェック治療法では届かなかった領域です。
そこから、さらに新しいアプローチとして進化させて生まれたのが、トータルヘルスケアプログラム®でした。
Dr. Ryo が生まれた理由

闘病生活、20年の介護、その間の家族の苦しみ、患者さんを救いたいという純粋な想い。
すべてが“Dr. Ryo”をつくったのだと思います。
実は、私には趣味はありません。
何かを食べたいとか、何かが欲しいとか、どこかに行ってみたいとか、そのような感覚になったことはないのです。
生きてるだけで十分なのです。
ただ、私には生きがいがあります。
患者さんが健康的な自分の身体を取り戻し、また挑戦できる、と思える瞬間になってもらうことが、何よりの生きがいなのです。
患者さんが諦めてしまった夢や想いを、もう一度取り戻せる身体へ導くこと、これを使命として、今日も現場に立ち続けています。
最後に
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
登録者20万人超え、特別企画、いかがでしたでしょうか?
これからも、身体と心を内側から整えるトータルヘルスケアプログラム® を通じて、本質的な健康と若返りを届け続けます。
Dr. Ryoとして、皆さんの未来がより美しく輝くよう、全身全霊で向き合っていきます。




